移動する!?
【柚木のきのき展part2】
2020.02.23 10:00~16:00
北街道商店街エリアを移動しながら実施
2020.2.23移動する柚木のきのき展
ー Q このまちが消えたらどうする?
「まちに気づき、自分に気づく」
2019年に開催した「柚木のきのき展パート1」では商店街の空き部屋をお借りし、公開制作を実施しました。
たくさんの人が開催三日間で足を運んでくださりました。
「柚木のきのき展パート2」では室内を飛び出し、移動しながら、まちの隙間隙間で実施しました。
柚木がたまたま出会った人に問いを投げ、一緒に対話しながら思考を深めていきました。
それを基に、ひとつの巻物を制作。
今回も柚木ワールド全開です。
『終了後に柚木が思ったこと』
今回ののきのきパート2はオモテとウラがあります。
【オモテ】
Qもし,このまちが滅ぶと分かったら?
今回は共通の問いを設定しました。ここで、まちについて考えると同時に自分の事も考えるのではないかと。
普段生活してる中では自分が大切にしている事って中々、深く考えないのではと思いました。
(考える人もいるとは思いますが)
問いについて思考する事によって、改めて自分の大切な物事・人を考えるきっかけになればなと思い、設定しました。
仮定として、
まちが滅ぶと分かったら、人は自分が本当に残したい物事・人があるのではないか。
そうまでして思うのならば、それは実はその人が心の底で大切に思っている事なのでは?
いやいやそもそも滅ぶと分かったら残したいものとかではなく、残りの時間をどのように過ごすとかも??
うーん。どうなのだろう。
実際にやってみないと分からないよね。
そもそも、この問い自体がふわっとしているのは確かです。
なので,そもそもの前提として
「まち」ってどこを指すのか
「私」は生き残る?死ぬ?
も人によって解釈が異なりました。
そもそもの前提も含めて、考える機会。
自分の解釈と他者の解釈の違いというものも認識へ。
さらに、解釈を超えた先にある、私と他者、それぞれが大切にしてることへの2つの気づき。
新たな視座の獲得。
「私はこれを大切に思ってるのか。という再認識」
「彼はそこに価値を置いてるのか」
「まち」は存在しているようで、それは存在していないような。
かなり曖昧な世界だと思います。
地図上のまちはきちんと区画や地区で分かれている。どこに行っても必ず境界が存在する。
私たちは地図というツールで理解をしている。
でも本当に地図で理解し、想像しているのか。
場所ごとに思い出があり、その思い出で形成されている「まち」が別の次元で存在していたりする可能性もあるんじゃないか。
人によって想像しているまちはいろんな形で展開されている。
共有できる部分があったり、無かったり。
まちはもっともっと自由であっていいはず。
みんなのこえ
・歴史と文化を残したい
・みんなが集まれる場所をのこしたい
・静岡が大好きな人たちを残したい(「まちのことが好きな人」が残っていればまた再生できると思う)
・大切な人と一緒に時間を共有する
・まちののんびりした雰囲気、ぽかぽかした空気・ぬくもりなど、目に見えないものを残したい
・人のあたたかさ
・建物などの“モノ”ではなく、その裏にある背景を残したい
・自分の居場所をのこしたい
・滅びる前にまちを救うetc
多くの人は物理的なモノよりも、目には見えないものを大切にしているように感じました。
「人」や「雰囲気」など、場の記憶(その人自身の記憶や、歴史的な場所の記憶)。
また、物質的モノももちろんだけど、そのモノが纏っているコト(背景、ストーリー、記憶、情報、思い出、歴史)こそが本質なのかもしれない。
博物館学の資料論やアートの視点からも似た事が言えるのではと思います。
結局は"人"なのではないか。
一度、思考し、答えを出してもらっても、柚木がそこからさらに深掘り堀掘をしたりたり。
私自身も一緒に学びを深めていったような感覚なのです。
【ウラ】
また実はこの行為自体がその空間への問いかけでもあるのかなと私は考えます。
マイパブリック「自分自身が公共であり、自分で公共はつくれる。」※3
誰もが自分らしくあれたら最高じゃないかな。
<公共=みんなのもの、与えられるもの>
そもそも公共って?みんなって?
そこに私は含まれてるのかな。
なんだか自分とまちとの距離を感じてしまう(私だけ?笑
"誰にも開かれてる"って?
それって本当に誰もに開かれてるの?
当たり前に用いられてる言葉。難しい。
共有されてるようでされてない気がする。
ルールが増えれば増えるほど誰の為の場所でもなくなるし,個性も無くなり,生きづらさや窮屈さもある気もする。
(それはそれで管理はしやすいのかもだ笑)
柚木はハッッとした。
日常的にサービスを享受するのが当たり前になってきてる。便利さも。
だんだん当たり前に慣れて,自分の頭で考える事を忘れてるんじゃないか。慣れは怖い。
ある程度枠にはまってしまえば、楽だし。
私は普段,どれだけの事を自分で考えて,決めて,それを行動に移しているのだろう。
そういったことから本※1のように、私からまちに対して何かしらの小さなアクションができるんじゃないか。
まちが変化するのではなく,そこを生きる人が変わった方がはやい。
なんならそっちの方がかっこいい笑
自分で選択した事が幸せに繋がると思う。
柚木論では幸せは当事者が見つけるもの。
私たちは選択の自由があるのだから。
自分から始まり,その輪をじわりじわり広げてく。
"まちに気づき,自分に気づく。"
でも身の丈で。
今回は多くの人を呼ぶよりかは、興味を持った人が立ち寄るに。敢えて柚木お得意の呼び込みはせず。
ひとりひとりと対話をしたかったら。
対話が作品にもなる。
さらに,まちの道の隙間でやる事で,歩行者,,。
話かけまではしなかったけど、より多く人の目に入ったへんてこりんな日常。日常。日常でいい。
日常の中に発見があった方が面白い。
柚木の存在が問いにもなりうるかもしれない。
まちへの信頼って,想い出を作るとかよりも前にそのまちに小さくても"自分の居場所がある"ってとこからも始まるのかなと思いつつ。居場所と言ってもハコでも,人でも言えること。
大切にしたい。
まちが人を構成してるのではなく,人がまちを構成してる。
まちにはそれぞれ色があると思ってて。
いろどりあるまちはその分,個性(=色)豊かな人が日々を生きてるんじゃないかな。
色んな人がいろんな形で関われる視点は必要だよねって気づきました。
色出してこ〜
※柚木のアイデアの根っことしては、いくつか参考にしたものがあります。
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ゼルダの伝説 風のタクト
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題名忘れたショートアニメ 海面がどんどん上がって、おじいさんがその度にを作る。
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「マイパブリックとグランドレベルー今日からはじめるまちづくり」
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キャンディ・チャン氏[死ぬ前にしたいこと]
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3.11メモリアル交流館の佐藤ジュンコ氏
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「SEAソーシャリー・エンゲイジド・アート入門」